太平記の鎌倉(鎌倉幕府最後の二週間)
現代語で読む太平記(著者:山本藤枝)を参照しています。

新田義貞
元弘3年(1333)5月8日、かねてから幕府に不満を持っていた上野国(群馬県太田)の
御家人・新田義貞後醍醐天皇の幕府追討の令旨により、鎌倉幕府のある鎌倉を目指し
関東平野を南下した。

新田義貞が数度の闘いに打ち勝ったことにより、東八箇国の武士たちは雲霞の如く集まり、
関戸に一日逗留し、軍勢の到着をまつと、六十万七千余騎になった。

元弘三年(1333)5月18日鎌倉攻めが始まった。鎌倉は南が海で、東西は山に囲まれた
天然の要害であり、鎌倉へ入るには極楽寺坂、大仏坂、化粧坂、亀ケ谷、小袋坂(巨福
呂坂)、朝比奈、名越切通しの7ヵ所だけであった。従ってこの7ケ所を守れば鉄壁の
要塞となった。

鎌倉攻め
 大館二郎宗氏を左将軍とし、江田三郎行義(ゆきよし)を右将軍とした軍は。其(その)
勢力、十万余騎(よき)、極楽寺の切通へぞ向はれける。
 
 堀口三郎貞満(さだみつ)を上将軍とし、大嶋讚岐守(さぬきのかみ)々之(もりゆき)
を裨将軍(ひしやうぐん)とした軍は、其(その)勢力、都合(つがふ)十万余騎、
巨福呂坂(こくぶろざか)へ指向(さしむけ)らる。

 新田義貞・義助、諸将の命(めい)を司(つかさどつ)て、堀口・山名・岩松・大井田・
桃井・里見・鳥山・額田・一井(いちのゐ)・羽川以下(はねかはいげ)の一族達を前後
左右に囲(かこま)せてた軍は、其(その)勢力、五十万七千余騎(よき)、粧坂より
ぞ被寄ける。


州崎(鎌倉市山崎寺分付近)の戦い
鎌倉勢は、化粧坂・極楽寺・州崎(鎌倉市山崎寺分付近)の三法を固め、別に諸国の兵
十万余騎を鎌倉にとどめて、弱い方面どこでも差し向けるようにした。 州崎では北野
神社のある天神山に本陣を置いた,赤橋前相模守守時を大将として戦っていた。18日の
10時から一昼夜続いた戦いでは。 決死の鎌倉防衛にかける守時以下の北条軍は騎馬の
遊撃隊を組み、神出鬼没に駆け回り、何回と無く新田軍に死に物狂いで向かっていった。
義貞は、この北条軍の、予想をはるかに上回る戦意の高さに驚いた。

18日の夕刻、北野神社のある天神山に本陣を置いた,赤橋前相模守守時を大将とする州崎
がまず崩れた。数万騎あった軍勢も、討たれたり逃げたりして、残りわずかに3百余騎
になっていた。守時は部下の南条高直に言った。「勝敗は合戦のならい、今敵はいささか
勝ちに乗っているが、これで北条家の運がきわまったとはかぎらぬ。しかし、わしはこの
陣頭で腹を切ろうと思う。なにゆえとなら、わが妹は足利殿の妻になっているからだ。 
高時殿をはじめ、北条家の人々に、とかくの誤解受けては武士たるものの恥だ。何の面目
があって、疑いをかけられつつ、しばしの命を惜しんでいられようか。」 まだ戦のなかば
だというのに、守時は陣中(州崎の千代塚=十三坊塚)で自害して果てた。南条もそのあ
とを追い、続いて九十余人が自害した。

極楽寺切通しの戦い
新田勢の第一軍十万余騎は大館二郎宗氏と江田三郎行義を左右の大将として極楽寺の切通し
へ向かった。 戦いは18日の午前10時から一昼夜にわたって続いた。鎌倉勢は大将大仏貞直
が大館二郎宗氏の軍に猛攻され苦戦していた。この大仏貞直の窮地を救ったのは、彼に長年
仕えながら、ふとしたことから勘気をこうむり、戦場に出られずにいた本間山城左衛門だっ
た。
大仏貞直が敗れそうだと聞いた本間は家来百人あまりを引きつれ、大館軍三万余騎がひかえ
た極楽寺坂の戦場の真っ直中へ攻め込んだ。敵将大館の首がほしい。狂ったように切りまく
り、大館の姿を探し回った本間は、ついに郎党に助けられ、大館の首を上げることができた。
「長年のご恩、これで報ずることができました。今は心安く、あの世のご先駆を致しましょ
う。」敵将の首を太刀の鋒(切先)に突き刺して大仏貞直のもとへ駆けつけた本間は、そう
言い残し、腹をかき切って果てたのだった。

稲村ガ崎
大将を失った大館軍は片瀬(藤沢市)、腰越(鎌倉市)まで引いた。それを知った新田義貞
は、大館二郎宗氏に代わって右翼の指揮をとった。元弘三年(1333)5月21日の夜中、2万余騎
を引きつれ、片瀬・腰越をまわって、極楽寺坂に向かった。明けゆく月の光に敵陣を見わた
すと、北は山が高く、南は稲村ガ崎、砂浜で道がせまいうえに、波打ち際まで逆茂木を立て
並べ、沖四、五町のあいだには、櫓をそなえた大船が並んでいた。馬から下りた義貞は、兜
をぬぎ、竜神に道を開きたまえと祈ってから太刀を海中に投げ入れると、渺々(びょうびょう)
たる砂浜が広がった。「これこそ古今の奇瑞(きずい)。進めや、者ども」義貞のかけ声に、
兵たちは遠干潟を真一文字に駆けぬけ、どっと鎌倉に乱入した。義貞は2日間の苦闘の末、
22日未明ようやく稲村ヶ崎からの突破口が開けた。

そのとき、新田勢は、由比浜一帯に火をかけた。折からのはげしい浜風に、火はたちまち
燃え広がり、鎌倉のあるじ相模入道:北条高時の館(宝戒寺)近くまで迫った。
府内は猛火の中を逃げ惑う民衆と、乗り手を無くした軍馬が走り廻っている。それは、
この世のものとは思えぬ恐ろしい光景であった。府内を熟知している義貞は、前浜から
防備の固い若宮大路を避け、小町大路(幅約11メートル)を北へ向かって進撃した。北から
駆け下りてくる北条軍と乱橋辺りで衝突、大激戦になる。街並の先、北の政庁辺りから
はすでに煙が上がっている。攻撃軍が北条館に辿りついた時は、猛火に包まれた後であ
った。

相模入道:北条高時(鎌倉の主)は千余騎を引きつれ、葛西谷(鎌倉市小町)の東勝寺に
非難した。高時は心静かに自害する場所に、先祖代々の東勝寺を選んだのだった。

長崎次郎高重
北条高時(鎌倉の主)の前に、月と太陽を染め出した帷(かたびら)に、精好織の大口袴、
赤糸でかざった腹巻(軽装の鎧)をつけた、精悍な武将が高時の前にひざまずいたのは、
鎌倉じゅうの谷々があらかた敵でづめつくされた5月22日のこと。武蔵野の合戦以来
今日まで、いつも先陣を駆けてきた長崎次郎高重である。

高重は、涙ながらに言った。「もはや心はいかにはやるとも、勝利は不可能とぞんじます。
敵の手におかかりにならぬお覚悟をなさっていただきたい。ただし、高重がもう一戦して
帰ってまいりますまでは、ご自害をお急ぎにならぬよう。高重、もう一度思いきり戦って、
あの世の道すがらの物語の種といたしましょう。」

高重は、崇寿寺の長老南山和尚に最後の教えを乞うために向かった。前から和尚のもとに
参禅していたのだ。「勇士とは、いかなるものであるか」高重は聞いた。「ただ剣をふるって
前進あるのみ」長老は答えた。

高重に従うのは、わずかに150騎である。彼は馬をわざと静かに歩かせて、敵陣にまぎれ
こんだ。なんとか敵将義貞に近づき、雌雄を決したかったからだった。義貞のいる所から
半町ばかりの所で「長崎次郎だぞ、逃がすな」と見破られた。

3000余騎の新田勢は150騎の高重勢にかきまわされ翻弄され、至る所で同士討ちを演じる
始末。しかし、時がたつにつれて見方も討たれ、主従わずかに八騎となった。しばらく
して、部下が近づいて言った。「そろそろおもどりになり、高時公にご自害をおすすめに
なるお約束ではございませんか」

鎧に立った二十三本もの矢を、蓑毛のように折りまげた姿で、東勝寺に帰り着いた。
「なんとしても、敵の大将義貞と勝負しようと探しまわったのですが、ついに出会え
ませんでした。その代わり、ろくでもないやつら四・五百人は斬りすてましたか。」

高重は、それから顔つきをあらため、相模入道高時の前にまかり出た。「ご自害の時で
ございます。手本に、高重がまず自害してお見せしましょう。」と言いざま、胴だけ残
っていた鎧をぬぎすて、盃をとって弟新右衛門に酌をさせ、三度かたむけた。その盃を
摂津刑部大夫道準の前におき、「心をこめた盃、お受けあれ。肴にはこれをさしあげる」

そう言ったかと思うと、刀を左の小脇から右脇腹まで突きさし、腸をつかみ出してがば
っとつっ伏した。
元弘(げんこう)3年(1333)5月22日 150年続いた鎌倉幕府は滅亡した。